日本の生活はオーバースペック
日本に帰ってきていつも思うことなのですが、とにかく綺麗で快適で便利なのです。そしてふと思う。日本はわたしにはオーバースペックなのではないかと。
快適さを犠牲にしても安くなった方が良い
ちきりんが思うのは、現実問題として収入格差が既に「所与の条件」となっているのであれば、地価や生活費にも、もっと格差がないと生きづらいでしょう?、ということです。
日本は、生活インフラの要求水準が“一億総中流時代のまま”とどまっていて、今や、基本的な生活費を払うだけのために、収入の大半を注ぎ込まざるをえない人が出て来てしまっています。
そういった人の収入が増やせるならそうすればいいですが、それが無理なら、生活に必要な費用水準を下げることも考えるべきです。
就業人口6500万人の二割近くに上る1000万人が年収200万円で暮らさねばならないというなら、それでも生活や人生が成り立つ地域が、日本全体の住面積の2割は存在しないとバランスがとれません。しかもそういうエリアは、仕事のない地方ではなく都会に必要なのです。
海外の都市部に存在する「ふたつの異なる物価水準のエリア」では、売られている商品の質はもちろん、店の雰囲気、内装のレベル、清掃状況から包装紙の質、レストランであれば皿の値段、さらには接客する店員のレベル(時給およびサービスレベル)まで違っています。そのかわり、通常エリアであれば年収400万円未満だとやっていくことが厳しいのに、格安生活圏では年収200万円でもそれなりに楽しみながらやっていけるというわけです。
2024年 F本氏の独白 - Chikirinの日記ではF本という市長が格安生活圏を作ったフィクションが書かれています。
わたしの知っている瀋陽の人達は平均月収は日本円にして3〜5万円の人が多いのです。中には20万円以上の人もいますし一概には言えないかもしれません。ただ3〜5万円の月収だからといって、貧しいわけではありません。そこにはその月収で生活できるサービスや生活インフラがあるのです。東京で18万円の月収で生活しているアルバイトの人よりも、瀋陽で5万円の会社勤めの人の方が豊かな生活をしている現実があるのです。
わたしは難しい事はよくわかりませんが、この問題はなかなか面白いことです。日本にそういった格安生活圏を作るのもいいですが、定年退職した人が生活費の安い東南アジアへ移住するように、色々な人が流動的に生活するのは面白いようなきがします。お金の問題だけではなくて何となく楽しそうではないですか。