安部公房と満州
1932年から1945年に中国東北部に満州国がありました。瀋陽は奉天と呼ばれており多くの日本人が住んでいました。その一人に私の好きな作家安部公房がいます。
安部公房は都市に対して独特な考えを持っていました。使い古された言葉による情緒的な表現をきらい、伝統的なものを嫌いました。安部公房の作品を読んで湧き上がる特異なイメージの背景には幼少期のほとんどを満州で暮らし終戦後に引き揚げてきた体験が深く関わっています。
安部公房は戦後いくつかの文学運動に参加しました。それらの文学運動や花田清輝との関係などについて語られたインタビューに、満州についてまた満州から引き揚げてきた安部公房の終戦体験にふれられた部分があります。
安部 そう思うね。いろんなことを教えてもらったよ。それに花田清輝は人間的に好きだったから、彼が運動、運動とといえば僕もよろこんで乗っかて一緒にやってたけど、グループとしての仲間意識はあまりなかった。彼に劣らず僕も人間嫌いだったからね。
それに第一、終戦体験というものがひどく違っていた。僕と同世代の連中がほとんど持っていたと称する、価値の転換、あるいは戦時中のイデオロギーからの裏切りという感覚は、僕にはまったくなかった。戦争中から、なんかおかしいという感じのほうがずっと強かったから、終戦も突然空が晴れわたったという感じしかなかった。むろん戦争イデオロギー以前の教育なり雰囲気なりを知っていた僕らより上の世代の連中もホッとはしただろう。しかし、その連中とも違うんだ。それ以前のことは全然知らないわけだからね。
だから、「近代文学」とか「夜の会」とかへいっても、どこか外国人と無理につきあっているようで、一つピンとこないんだ。ただ、そこだけが僕を受け入れてくれたし、ほかに行く所がないからそこにいただけなんだ。でもいま考えると、そのすべてが僕にとってプラスに作用してくれたように思うね。
コミュニズムへの接近も、まったく過去の屈折なしの接近だった。転向問題も何も知らずにコミュニズムにせっきんしたという点では、むしろずっと後の世代と似ているのかもしれない。離れるときも、僕としてはまっすぐ一本の道を歩きつづけてきたつもりだ。結局はすれ違いだったんだね。
──安部さんは大陸で終戦を迎えられたわけですよね。そこで、敗戦直後の一時期、きわめて無政府的な状態が生じて、暴力的なものが露骨に出てくる状況を体験された。そのことが、非常に大きかったということでしょうか。
安部 確かに暴力的な状態だったね。完全な無政府状態だった。しかし無政府状態、かならずしも無秩序というわけではないんだ。振り返ってみてよくわかる。政府がなくなったのに続く、ある種の「恒常的なもの」、その発見が何よりも大きなショックだったように思う。
まあ、子供のころの僕はなんと言っても関東軍を通じて植民地支配をしている日本人の子供だからね、そうはっきり意識していたわけでわないが、どこかでどす黒い嫌なものを予感はしていた。だから、終戦という、決定的な変化、とにかく権力が倒壊するわけだろう。何か大変なことが起こるに違いないと思っていた。ところが起こらないんだ。いぜんとして市民的日常が継続しつづけるんだ。まさに目からウロコが落ちる思いだった。
考えてみると、子供の頃から、いちばんの疑惑は、やはりなんと言っても絶対的な権力、それが存在しなければないらいことに対する疑惑だったからね。だから終戦のとき権力が崩壊しても、市民的日常は依然として維持されつづけるという経験・・・・なんとなくわだかまりがほぐれたような感じで、とにかく決定的な体験だったように思うな。だから、いわゆる焼け跡体験とは、ある意味ではまったく逆になるわけだね。
──満州において、終戦によって昨日と今日が意外に変わらなかったということが、国家と都市の機能に対する安部さんの考え方に、大きく影響しているのでしょうか。
安部 そう、昨日まで日本人は支配民族だった。権力の末端にいるどんな日本人でも、存在の一部に権力を反映させていた。その日本人が終戦と同時に素っ裸にされてしまったわけだ。都市がその裸の日本人をもはや受け入れてくれるはずがないと僕は思った。それまでの被支配民族からからなず報復されるはずだと思った。ところがそうじゃないんだ、同じことなんだ。それに中国人の側でも、国民党系あり、八路系ありで、終戦と同時にいろいろな対立が表面に浮かび上がって来た。しかしいきなり暴力が行使されるわけではないんだな。
ま、僕のいた都市は瀋陽という大都市だったけれど、いちばん人間が多く接触しあうのは、小売の行われていた商店街だね。むろん変化がなかったわけではない。とにかく生産が中止しているわけだから、日常が維持されながらも徐々に商品の内容が変わっていく。商品の流通が少しずつ狂ってきて、なんとなく祭りの縁日的な雰囲気に町が変わっていく。しかし、そこで経済が流通していることにはなんの変わりもないんだ。
暴力を統制している国家権力というものがなくなったら、当然暴力が起きるというのが一般の通念だけど実際は違うんじゃないか。暴力を行使しているのは、むしろ国家の側じゃないのか。事実暴力が目立ちはじめたのは、むしろ次の権力が戻ってきたときだったな。理屈としてではなく、こうした事実を体験できたのだから、むしろ有難かったと言うべきだろうね。
安部公房全集26 [インタビュー]都市への回路(1978.4.1.)より
そして、晩年にアメリカ文化やクレオールについて興味を持っていたことでも、生涯を通じて満州での体験が安部公房の創作活動に大きな影響を与えていたと考えることができます。
アメリカ文化の精髄は、自動車じゃないんだよね。<ジーンズとコーラ>なんだ。二つの特徴は国籍がないんだ。親がいらないんだよ。たいてい衣装でも習慣でも親がつける。しかしジーンズを着なさいと言う親はいない。コーラを飲みなさいと言う親もいないぜ。だからモスクワの青年も北京の青年もとびつくんだ。
これは一つの国際スタイル。それでアメリカとは何かということに・・・・・。わかりやすく言うと伝統を拒否した文化。親のない文化っていうか、子供だけで作ってしまう文化。だから本当はクレオール論なんだ。ただ、クレオールといっても分からないだろ。
──クレオールに着目されるのはなぜ?
伝統ぎらいさ。反伝統。
──時代って言葉も含め?
嫌い、嫌い。
この安部公房という特異な作家から透けて見える、共同体の消滅・故郷の喪失・多民族国家などのイメージが怪しげな架空の都市へと想像を膨らませます。瀋陽は未だに当時の面影を残しており、満州国の時代に作られた建物が数多くのこされています。日本人の私が瀋陽のことを知りたいと思ったとき、この歴史は避けて通ることができないことのひとつですが、安部公房という一人の作家を通して得ることのできるイメージは、私なりに違った地図を書くための手がかりとして非常に重要な役割を持っています。